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文化生態系としての里山:日本の伝統的土地利用が育む生物多様性

Tags: 里山, 文化生態系, 生物多様性, 伝統的知識, 土地利用

はじめに:文化生態系としての里山の重要性

日本の里山は、古くから人々の営みによって維持されてきた二次的な自然環境であり、その独特な景観と豊かな生物多様性は、しばしば文化生態系の典型的な例として挙げられます。文化生態系とは、特定の地域社会における人々の生活様式や伝統、知識、技術といった文化的な要素が、その地域の生態系と相互に影響を与え合いながら形成されるシステムを指します。

里山においては、単に人間が自然を利用するだけでなく、人間の活動そのものが特定の生態系や生物多様性を創出し、維持してきました。本稿では、日本の里山における主要な伝統的土地利用が、どのように生物多様性に寄与してきたのかを具体的に解説し、文化と生態系の相互作用の重要性について考察します。

里山とは何か:人間の営みが不可欠な環境

「里山」という言葉は、一般的に集落の周辺に位置し、人々が農業や林業を通じて利用してきた森林、農地、草地、ため池などが複合した地域を指します。これらの環境は、原生自然とは異なり、薪炭利用のための雑木林、屋根材や肥料としての茅場、灌漑用水としての水田やため池など、人間の手が入ることでその景観や生態系が維持されてきました。

里山の生物多様性は、こうした継続的な人間の管理、つまり伝統的な土地利用に深く依存しています。利用が停止されると、植生が遷移し、特定の環境(例えば、光がよく差し込む林縁、湿地、草地など)に依存する多くの生物種が姿を消してしまう可能性があります。

伝統的な土地利用と生物多様性

里山を特徴づけるいくつかの伝統的な土地利用は、それぞれ独自の生物多様性を育んでいます。

1. 水田と水路

水田は、イネを栽培するための人工的な湿地生態系ですが、その周囲の水路や畦畔(けいはん)、冬季に水を張る冬期湛水(とうきたんすい)などの管理方法によって、多様な水生生物の生息環境となります。メダカ、ドジョウ、フナといった魚類、ゲンゴロウやタガメなどの水生昆虫、タニシやカワニナといった貝類、さらにはカエルやイモリなどの両生類にとって、水田は重要な繁殖場所や餌場を提供します。

また、水田の耕作方法(例:有機農法、不耕起栽培)や、畦畔の管理(例:除草、野焼き)も、そこに生息する生物に影響を与えます。伝統的な農法や、収穫後の稲わらを田んぼに戻すといった有機物の循環は、土壌生物やそれに依存する生物相を豊かにする効果があります。

2. 二次林(雑木林)

里山に広く見られるコナラやクヌギなどの落葉広葉樹林は、かつて薪や炭、堆肥の材料となる落ち葉を得るために定期的に伐採されてきました。こうした定期的な伐採は、森林が極相林へと遷移するのを妨げ、林床に光が差し込む明るい環境を維持しました。

これにより、スミレ類やカタクリなどの早春植物、さまざまな種類のキノコ、そしてそれらに依存する昆虫類(チョウやカブトムシなど)や鳥類(コジュケイ、ホオジロなど)、哺乳類(タヌキ、ノウサギなど)が生息できる環境が維持されます。伐採によって生じる切り株や倒木も、特定の昆虫や微生物の生息場所となります。

3. 茅場・草地

茅場(かやば)は、主にススキやカヤなどの草本植物が優先する場所で、かつては茅葺き屋根の材料や家畜の餌、田畑の堆肥などに利用されていました。茅場を維持するためには、定期的な草刈りや火入れが行われます。

こうした管理は、背の高い樹木が侵入するのを防ぎ、日当たりの良い草地環境を維持します。これにより、ゼニタナゴやアサヒナカワトンボといった特定の水辺生物(茅場周辺のため池や水路を利用)、バッタ類、チョウ類、そしてそれらを捕食する鳥類(モズ、セッカなど)や小動物にとって重要な生息地となります。火入れは、古い枯れ草を除去し、新しい芽吹きを促すとともに、特定の昆虫の生活史に合わせた管理として機能することもあります。

4. ため池

里山のため池は、主に農業用水を確保するために作られましたが、独特な水生生態系を育んでいます。ここでは、流れのある河川とは異なる、止水環境に適応した生物が生息しています。絶滅が危惧されるイタセンパラのような魚類や、多くのトンボ類、水生植物などがため池を重要な生息地としています。ため池の堤の管理(草刈りなど)も、周辺環境に影響を与えます。

文化と生物多様性の相互作用メカニズム

里山における文化と生物多様性の相互作用は、以下のような形で機能しています。

  1. 伝統的な土地利用: 人々が資源を持続的に利用するために培った知識や技術(伝統的生態学的知識)が、特定の景観や生息環境(水田、二次林、茅場、ため池)を意図的あるいは結果的に創出・維持します。
  2. 生物多様性の維持・創出: 創出・維持された多様な環境が、それぞれに適応した多くの生物種にとって生息場所を提供します。これにより、里山全体として高い生物多様性が保たれます。
  3. 文化的な価値: 里山の豊かな自然は、景観美だけでなく、特定の生物種(例:ゲンジボタル、メダカ、渡り鳥のサシバなど)が人々の間で親しまれ、文化的なシンボルや資源となります。
  4. 保全意識の向上と持続: 生物多様性の価値が認識されることで、その維持に向けた伝統的な土地利用や保全活動への意識が高まり、文化と生態系の相互作用が持続される可能性があります。

このように、里山では文化的な営みが生態系を形作り、生態系が文化に価値をもたらすという相互作用が見られます。これは、人間活動が自然に一方的に負の影響を与えるだけでなく、適切な管理のもとでは生物多様性の維持・向上に貢献しうることを示しています。

里山の課題と未来への展望

現代社会においては、過疎化や高齢化、ライフスタイルの変化により、里山における伝統的な土地利用が維持困難になっています。手入れされなくなった水田は放棄され、雑木林は密生し、茅場は失われつつあります。これにより、里山特有の生物多様性が失われることが懸念されています。

しかし近年、里山の多面的な価値が見直され、地域住民、NPO、企業、研究者など多様な主体による保全活動が活発に行われています。伝統的な技術の継承、新たな資源利用法の模索、都市住民との連携による農作業体験や環境教育プログラム、エコツーリズムなどが実施されています。

これらの活動は、単に自然を保護するだけでなく、「文化生態系」という視点から、里山における人間と自然の関わり方を再構築しようとする試みと言えます。教育現場においても、里山は文化と生物多様性のつながりを学ぶための貴重なフィールドとなり得ます。子どもたちが実際に里山の環境に触れ、伝統的な営みに参加することで、持続可能な社会のあり方や、地域固有の文化と自然の価値について深く学ぶことができるでしょう。

結論

日本の里山は、人々の伝統的な土地利用によって形成・維持されてきた、文化と生物多様性が深く結びついた文化生態系です。水田、二次林、茅場、ため池といった多様な環境が、それぞれの伝統的な管理方法によって独特な生物多様性を育んできました。里山が直面する現代的な課題に対し、文化生態系という視点から、伝統的な知恵を活かしつつ新たな手法を取り入れた保全・再生の取り組みを進めることは、失われつつある生物多様性を守ると同時に、地域文化を次世代に継承するためにも重要です。里山から学ぶ文化と自然の相互作用の理解は、私たちが目指すべき持続可能な社会のヒントを与えてくれるでしょう。